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聖フランシスコ・ボルジア司祭証聖者  St. Franciscus Borgias C.  記念日 10月 3日


 ボルジアの聖フランシスコは始め国家の重臣として国王に忠勤をぬきんで、後には修道者となって一身を天主に献げ、聖会に対しても数々の功労をたてた聖人である。
 彼は1510年、スペインのガンヂア市にその地方の領主を父、皇帝の近い縁戚を母として生まれ、幼時より敬虔な性質で、かりそめの遊びにも戦争ごっこよりミサ聖祭の真似事を好むという風であった。19の年齢召し出されて宮中に近待の役を勤めることとなったが、その忠実な働きぶりは当時欧州の半分を領していた皇帝カルロ5世やその皇帝イサベラの信任を博し、ついにはイサベラの御意でその寵愛する侍女エレオノレ・デ・カストロを妻とし、侯爵の称号を授けられたほどであった。このエレオノレも夫に劣らぬ信仰の深い婦人であったから、その家庭は常に春の如く温かに、16年間に5男3女を挙げて何不足のない生活を続けた。然るにそのうち皇帝イサベラが崩ぜられ、国葬の行われるに当たり、フランシスコはこれが執行委員長の大役を命ぜられたが、御遺骸をグラナダなる皇室の御墓所に埋葬するに先立ち、故実に則り御柩を開き改めた所、生前はさしも美人の聞こえ高かった皇后も、花の顔あさましく変わり果て、ただ人の生の無常迅速、浮き世の事物のはかなさを思わせるばかりであったから、彼はここに己み難い求道の心を起こし、この世に生きて甲斐あるは唯天主に仕える事のみである、故にもし妻に先立たれるようなことがあったならば自分も必ず修道院に入って主の望み給う完徳の道を辿ろうと誓ったのであった。
 後に彼はその日のことを偲んで「イサベラ皇后の崩御は実にわが霊生の始めであった」と述懐している。
 皇帝はフランシスコの出家の志を早くも見て取られ、彼の如き忠臣を失うは国家の一大損失と、足止めに之をカタロニア州の総督に任命された。これは当時皇帝代理ともいうべきほどの格式をもった顕職であったのである。フランシスコには最早少しもこの世の栄達を望む心はなかった。しかし忠義な彼は皇帝の恩顧を無にするに忍びず、已むなくこれをお受けするに至った。
 カタロニア州にはその頃海賊の来襲頻りに、良民の生命財産を奪われる者が少なくなかった。で、フランシスコは総督となるや警戒を厳にし、賊共を捕らえては重刑に処したから、間もなくその害も全くあとを断ち、人々平和を楽しむことが出来るようになり、彼の恩徳を讃える声は津々浦々に充ち満ちたのであった。
 フランシスコは公人としては皇帝代理の資格を以て時々盛大豪奢な饗宴を張り、多数の客を招き、その権勢の程を示さねばならなかったが、私人としてはさながら修道者の如く質素な簡易生活に甘んじていた。その間にも早くかような高い地位を去りたいとの心は禁め難く、彼は総督たること6年にしてわが辞職を皇帝に奏請したが許されず、ようようその望みの叶ったのは、更にそれから2年後に父が死に、その後をつぎガンヂア領主となるべく、皇帝の御聴許を得た1543年のことであった。
 1546年には愛妻エレオノレも黄泉の客となった。かくて今や先の誓いを果たすべき機会に遭遇したフランシスコは、早速イエズス会の創立者イグナチオ・ロヨラに同会入会方を願い出て快諾を得た。けれども8人の子女を有し広大な領地人民を持っている身には、その処置をつけるだけでもなかなか容易ではなかった。それで彼は教皇の特別の御許可を受けて、まず従順と貞潔の誓願のみを立て、清貧のそれは一切の始末をつけるまで延期して戴いたのである。
 フランシスコは長男に我が後を相続させ、他の子供達にもそれぞれ身の振り方を考えてやった後、1550年ローマに赴きイグナチオ指導の下に修道生活を始めた。しかし教皇ユリオ3世が彼を枢機卿に挙げるという噂を聞くと、謙遜な彼は却ってそれを心憂い事に思い、逃れて故国スペインに帰った、そして1551年カルロ皇帝の御承認を得て叙階の秘蹟を受け、司祭の資格を授けられた。
 もと皇帝代理の要職に在り、名声天下に轟いていたフランシスコの叙階は、人々の間に大いなるセンセーションを巻き起こさずにはいなかった。彼の説教を聴聞せんと望む群衆は、四方から大波の如く押し寄せた。伝えられる所によればその初ミサにあずかった者は1万2千人、その時彼の手から御聖体拝領した者は1240人の多数に上ったとの事である。
 やがて彼はスペインにおけるイエズス会の管区長に任ぜられた。イエズス会は従来の修道会といささか選を異にしている所があったので、之を誤解し非難攻撃する者もないではなかった。否、ある時の如きは皇帝カルロまでその讒謗の言葉に動かされ、同会に疑いを抱かれた事さえあった。それを知ったフランシスコは皇帝に拝謁を願い、一々弁明してその誤解を一掃したのであった。
 彼はその後二代目のイエズス会総長レイネズの招きに応じてローマに行き、彼を助けて会の発展に尽くしたが、レイネズ没するやその後を受けて、3代目総長に選出推挙された。
 フランシスコは日頃から苦行に熱心で、己を懲らしめるに極めて峻烈であったから、今総長になっても部下に対して定めし厳格であろうと思われたのに、案に相違して甚だ寛大で、慈父のような温情に富み、そればかりか各修道院の院長達にも常に柔和を以て人に臨めとおしえた位であった。そして会員に善き精神を鼓吹し、宣教師の養成に努め、会の発展に尽くした功績は永久に没し得ぬものがあった。
 1572年ピオ5世教皇はスペインへ枢機卿アレクサンドリニを特使として派遣されるに際し、フランシスコをその介添え役に選定し給うた。しかし彼は途中病を得てローマに戻り、間もなく容態あらたまって永眠した。命日は10月1日享年62歳であった。

教訓

聖会は本日のミサ典礼中、聖フランシスコから浮き世の栄誉を軽んずる徳を学ぶように勧めている。事実彼は爵位顕職名誉財産、世人のほしいと望むものは殆どことごとく之を有していたが、たちまち弊履の如く一切を投げ捨てて、清貧、謙遜の修道生活に入った。我等もその名利に恬淡な心を見ならい、現世に対する執着を断つように努めようではないか。